「武術」を習得しただけで、「武道」を修得したとは言えない。
「医術」を習得しただけで、「医道」を修得したとは言えない。
武道には「武徳」、医道には「医徳」
徳なくして道あらず、道なくして徳あらず
これが、人の心がおもむく「TAO」である。
「医術」を習得しただけで、「医道」を修得したとは言えない。
武道には「武徳」、医道には「医徳」
徳なくして道あらず、道なくして徳あらず
これが、人の心がおもむく「TAO」である。
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②「武術」は技法でしかない、「武道」は武士の心の道である。
そもそも、「気」は誰でも持っている。
だから誰でも≪武術の技法≫を習得すれば、気をあやつり、
武術のスポーツ・競技などに使うことができる。
闘争・ケンカ、他を殺すことに使うことだってできる。
しかし、どんなに武術の達人になったとしても、「武徳」の心得を修得しなければ、
≪真の武道≫を修めたとは言えない。
なぜなら、武術は技法であり、技術にすぎないからだ。
③「医術」は技法でしかない、「医道」は医者の心の道である。
誰でも医学の学校に行けば、「医術」を習得することができる、医者になれる。
医者になって、肉体を切ることも、縫うことも、薬を飲ませることも、
人間の法律では許されて、病気を治癒することができ、他から尊敬を受ける。。。
でも、医術で、相手を殺してしまうこともできる。
どんなに医術の達人になったとしても、「医徳」の心得を修得しなければ、
≪真の医道≫を修めたとは言えない。
なぜなら、医術は技法であり、技術にすぎないからだ。
武術も医術も「徳」・「道」がなければ、怖い武器となる。
武術も医術も武器であり、あらゆる生命体を救い平和を守るために使うことができるが、
逆に、戦争を起こして生命を殺し、ヤミにほうむることに使うこともできるのです。
ですから、戦争兵器にならないように、人は、努力して
人間の心の「徳」を備えていかなければならないのです。
≪気をあやつる≫とは、
自分の気をコントロールして集中させて力をこめる、かつ相手の気や
場の空気を読みあやつる力のことを言う。
武術の熟練者ともなると相手を投げ倒したりすることができる。
気をあやつる達人であれば、何人もの人が束になってかかっても四方八方率いるかのように
相手を一撃で倒してしまうことができるでしょう。
「武術」を闘争・ケンカに使ってはならない。
くれぐれも忘れてはならない。「気」は誰でももっている。
あなたが好きな「武術」を選択し、その技法を身につけば、あなたにも「気」をあやつって、
武術のスポーツ・競技に生かすことができる。
しかし、闘争・ケンカに使ってはならないのです。
闘争・ケンカは、「邪気」に属する。
この「邪気」を自分に取りこんでしまうと悲劇を招くから気をつけましょう。
篠塚和典物語⑱へ続く…
あんどうよしみ
あんどうよしみ
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