2010年12月10日金曜日

■武道には「武徳」、医道には「医徳」-篠塚和典物語⑰

「武術」を習得しただけで、「武道」を修得したとは言えない。


「医術」を習得しただけで、「医道」を修得したとは言えない。


武道には「武徳」、医道には「医徳」


徳なくして道あらず、道なくして徳あらず


これが、人の心がおもむく「TAO」である。

→続き
②「武術」は技法でしかない、「武道」は武士の心の道である。

そもそも、「気」は誰でも持っている。

だから誰でも≪武術の技法≫を習得すれば、気をあやつり、

武術のスポーツ・競技などに使うことができる。

闘争・ケンカ、他を殺すことに使うことだってできる。


しかし、どんなに武術の達人になったとしても、「武徳」の心得を修得しなければ、

≪真の武道≫を修めたとは言えない。

なぜなら、武術は技法であり、技術にすぎないからだ。


③「医術」は技法でしかない、「医道」は医者の心の道である。

誰でも医学の学校に行けば、「医術」を習得することができる、医者になれる。

医者になって、肉体を切ることも、縫うことも、薬を飲ませることも、

人間の法律では許されて、病気を治癒することができ、他から尊敬を受ける。。。

でも、医術で、相手を殺してしまうこともできる。


どんなに医術の達人になったとしても、「医徳」の心得を修得しなければ、

≪真の医道≫を修めたとは言えない。

なぜなら、医術は技法であり、技術にすぎないからだ。


武術も医術も「徳」・「道」がなければ、怖い武器となる。

武術も医術も武器であり、あらゆる生命体を救い平和を守るために使うことができるが、

逆に、戦争を起こして生命を殺し、ヤミにほうむることに使うこともできるのです。

ですから、戦争兵器にならないように、人は、努力して

人間の心の「徳」を備えていかなければならないのです。


≪気をあやつる≫とは、

自分の気をコントロールして集中させて力をこめる、かつ相手の気や

場の空気を読みあやつる力のことを言う。


武術の熟練者ともなると相手を投げ倒したりすることができる。

気をあやつる達人であれば、何人もの人が束になってかかっても四方八方率いるかのように

相手を一撃で倒してしまうことができるでしょう。


「武術」を闘争・ケンカに使ってはならない。

くれぐれも忘れてはならない。「気」は誰でももっている。

あなたが好きな「武術」を選択し、その技法を身につけば、あなたにも「気」をあやつって、

武術のスポーツ・競技に生かすことができる。

しかし、闘争・ケンカに使ってはならないのです。


闘争・ケンカは、「邪気」に属する。

この「邪気」を自分に取りこんでしまうと悲劇を招くから気をつけましょう。

篠塚和典物語⑱へ続く…

あんどうよしみ

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