【6・9】1993年(平5) 高速スライダーで16K 伊藤智仁、悲劇は150球目
グーグルで検索すると、こんなタイトルが出てくる。
1993年6月9日、皇太子さまと雅子さまの結婚の儀が行われた。
そして、この日の夜、金沢野球場で巨人・ヤクルト戦が行われたのです。
球場に2万5000人の観衆が集まり、野球戦の勝負の行方よりも、
伊藤投手の快投に観衆が注目していた。
伊藤智仁氏は、プロ野球ファンの間で伝説として語り注がれて、天才投手として知られている。
この日、伊藤投手にリーグタイ記録の16奪三振の栄光が目前に迫っていた。
しかし、腰痛で復帰したばかりの篠塚さんにサヨナラホームランで破られたのです。
伊藤投手に悲劇の150球目とは?
その時の様子を評論家のコメントから抜粋してみました。
もっと知りたい人は、検索してみてください。
また、動画もありますのでぜひともご覧になってください。
・・・・伊藤智仁を人々の記憶に刻み込んだのは、6月9日の対巨人戦(石川県立野球場)であったろう。この日の伊藤の投球は一段と冴え渡り、5回までに早くも12奪三振。それからペースは落ちたものの、9回2死の時点で当時の最多奪三振記録17に迫る16個をマーク。しかも、ここまで巨人をノー・ヒットに押さえていたのである。ところが、テレビを見ながら何ともヤキモキさせられたことには、ヤクルトのほうも僅か一点を取ることが出来ない。こうして試合は、0対0のまま延長戦へ突入するかに思われた。
ここで打席に入ったのは、晩年(引退の前年)の域に達していた巨人・篠塚。
この日も途中出場だった篠塚は、二度、打席を外し、伊藤の気勢を殺ぐと初球を強振、打球は一直線にライト・スタンドへ……サヨナラホームラン。
気持ち良く投げていた伊藤が、初めて投げ急いだのがこの日の150球目だった。
目前に迫っていたリーグタイ記録の16奪三振の栄光からまさに一転、奈落の底、伊藤は敗戦投手となったのである。
ついこの間まで、篠塚さんは試合中に腰痛がさく裂し、タンカーで運ばれた。
その直後に私の所に来たのですが、この日も、復帰したばかりで、
誰もがこんな時に、なぜ篠塚さんが!?と、巨人ファンのみなさんはハラハラしていたでしょう。
しかし、あの長嶋監督の戦略で決めたことだから、
ファンのみなさんも息を飲んで目を見張っていた。
篠塚さんは、2度、打席を外し、一撃でサヨナラホームランを打ったのだ。
私には、長嶋監督と篠塚さんの、「気が共振した!」としか思えないほどの
ドラマチックな試合となったのです。
篠塚和典物語⑧つづく
あんどうよしみ
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